山浦 景国(やまうら かげくに)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。
●笹岡城氏の山浦氏 天文22年(1553年)、父・村上義清と共に武田晴信に追われて越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼ってその猶子となり、 謙信の養女を娶る。女系ではあるが上杉重房の血を引いていたので、後に当時断絶していた山浦上杉家を継いで山浦国清と 名乗る。
初め、客将として謙信に仕え、川中島の戦いや越中国での戦いなど、謙信に従って各地を転戦。謙信死後は 上杉景勝に仕えて御館の乱の功績により、景勝から一字を与えられて山浦景国と名乗ることを許された。 一方で、対外的には旧姓の村上を称し続けていた。
天正10年(1582年)には、海津城主となり父の旧領を回復する。しかし、元大名であったことが災いし、 他国の大名、武将と書状を通じて交流していることで他家と内通していると疑いを掛けられた。さらに、 与力の屋代秀正が徳川家康に寝返ったために海津城主を改易され越後に召喚され、根知城主にさせられた。 その際、旧村上家臣も景国から離れて散り散りにされたと言われる。
慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に伴い、塩松東城の城代となり、6500石を領した。
没年不詳。 山浦家は後に景勝の側室桂岩院の実家四辻家出身の山浦光則が家名を継いだ。
※※役割※※
笹岡城は守護・上杉氏が、独立性の高い揚北の諸豪族を監視するために築かれた、上杉氏の番城でした。 この揚北に打ち込まれた楔が最も機能を発揮したのは、新発田重家の乱の際でした。
上杉景勝の最前線となった笹岡城から重家の本拠、新発田城まではおよそ10km、間には現在は福島潟 としてわずかに名残を残す湖沼地帯が広がり、水運によって敵方の新発田城や新潟城、味方の三条城や木場城にも繋がる、 非常に機動力の発揮できる立地にあります。
それだけに重家にとっては目障りな存在であったでしょう。 何度か笹岡城を攻撃しています。笹岡城周辺の最大の激戦は、重家が景勝軍の退却の際に猛烈な追い討ちをかけた「放生橋の合戦」でした。 このとき景勝はあわや旗本まで斬り崩される寸前でしたが、藤田能登守信吉らの奮戦で辛くも笹岡城に帰り着いています。
重家の足掛け七年に渡る抵抗は実を結ばず、 最後は重家の自刃でこの乱は終結します。その間、笹岡城でも常に臨戦態勢の緊張状態が続いていたことでしょう。 遺構の残存状態は比較的良く、現在は笹神村の文化財として公園化されています。 細長い半島状台地は、かつては広大な湖沼地帯に突き出していたのでしょう。主郭の東側斜面には、舟繋ぎなどの遺構が残ります。 主郭はほぼ方形で、おそらく守護家が一門を配したころ は、単郭の居館であったのでしょう。戦国期、とくに新発田重家の乱に際して拡張されたものと思われます。
※※戦歴※※
室町時代初期に越後守護職に任じられた上杉氏が、揚北の押さえとして一門を白河荘山浦条に配置し、山浦上杉氏の祖となった。この山浦上杉氏の居城が笹岡城である。
応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した
(応永の大乱)守護方の上杉頼藤、長尾朝景らに呼応した鳥坂城主の中条房資がが一時、笹岡城に派兵し籠城した。 戦国期には一時、山浦氏は断絶していたが、武田信玄に信濃葛尾城を追われ、春日山城の上杉謙信を頼っていた
永禄八(1565)年、村上義清を根知城将に、その子国清を笹岡城将に任命、国清に山浦の姓を与えて一門扱いとした。
天正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱の後、笹岡城には上田衆の今井源右衛門久家が配された。
天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)、 笹岡城は新発田城に対する上杉景勝勢の前進基地となった。
天正十(1582)年、景勝は木場城の菱沼、山吉らと笹岡城の今井らに新発田城を攻撃させようとしたが、重家は反撃に出て笹岡城に迫り、大室において激戦となった。
天正十一(1583)年四月初旬、新発田重家は兵を水原城、笹岡城などに進めたが菱沼友重、富所定重らが防戦、重家は会津の芦名盛隆に援兵を求めた。
天正十一(1583)年八月に上杉景勝は再び新発田城を攻めたが、九月二十五日(または十月四日)払暁に陣払いを命じた。退却軍が放生橋に差し掛かった頃、 新発田勢の奇襲を受け、景勝勢は水原城主・杉原右近(水原満家)、菅名綱輔、上野九兵衛らを失って景勝は笹岡城に退却し、水原城は新発田方の手に渡った。
天正十三(1585)年六月、景勝は六千五百の軍で新発田城を包囲したが遠巻きにしただけで戦いはなく納馬した。景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせたが、 城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだ。景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触し内通を誘い、九月二日、伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城に退却して水原城は落城した。
天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、九月七日、景勝は新発田城攻撃に先立ち、加地城、赤谷城、五十公野城を落とし、 十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で新発田城は落城、重家は自刃した。その後の笹岡城については不明。
