鉢盛城跡

千坂対馬守景親は女堂に居館を持ち、鉢盛城の要害を持つ上杉氏の重臣・千坂氏の砦。
さらに北方の急斜面下の尾根上には二重堀が築かれ、尾根筋からの侵入者を防いでいるが、居館の女堂館からの北方となる方向を監視する砦である。

千坂景親・千坂対馬守景親 生年月日不詳~慶長11年(1604)4月24日。
     鉢盛城(新潟県阿賀野市女堂)主。
千坂氏は越後守護上杉氏の直臣で、文明~明応年間(1469~1501)にかけ、千坂対馬守実高が守護上杉家の奉行人でした。  
永禄2年(1559)10月28日、上杉謙信が京より帰国すると、諸将は太刀を献上して祝賀、千坂氏も献上。  
天正3年(1575)  2月16日の「上杉家軍役帳」、
天正5年(1577)12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」に千坂景親は名前を連ねています。
天正6年  (1578)     6月18日の 鉢盛城を笹岡城主・今井右衛門が攻め落城させた。千坂対馬守景親は、安田城主・安田上総介の助力を得て今井右衛門を討ち取りました。  
文禄3年(1594)の『文禄三年定納員数目録』によると、千坂景親は知行定納高2176石2斗9升8合5勺、軍役130人半で、伏見御留守居役でした。  
文禄4年(1595)、伏見普請総奉行。  
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に従い、大沼郡のうち5500石を知行。  
慶長8年(1603)、江戸家老をつとめます。  
千坂景親の供養塔は一花院跡(山形県米沢市中央5丁目4番25号)に、千坂家の墓は日朝寺(米沢市相生(あいおい)町)にあります。

1600年代 (女堂の成り立ち)
千坂対馬守景親は阿賀北を支配する為に虚空蔵町(現女堂付近) の鉢盛山に築城した。
裏山の二石獄に虚空蔵菩薩を安置、奉祀して発展していた。
江戸時代に養父千坂景親を引き継ぎ千坂高信は、勝屋方面へ狩りに出かけた際に如意輪観世音菩薩の御尊像を拾った。 勝屋村の郷民・中野某の息女が高信から御尊像を頂いて女堂に御堂を建てて安置して、その息女 が比丘尼となりそのお堂の脇に庵室を造りそこに住んで供養を行った、虚空蔵町が女堂と呼ばれる様になる。
※比丘尼(びくに)とは、出家して具足戒(ぐそくかい)を受けた女性、または尼僧を指します。

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